人間工学
Human Factors and Ergonomics

我々人間の大きな特徴の一つは道具をつくり、使い、そしてそれを発展させることができることである。どの時代においても、生活の基盤となる衣食住はもちろんのこと、労働、学習、余暇、コミュニケーションなどの様々な活動において道具を使わないことはない。近年では道具によって種々の環境要素、例えば光環境、映像環境、音環境、温熱環境等を自在に操ることもできる。

しかしながら、特に近代のテクノロジーによって創造された機器や人工環境は、人間に恩恵を与える一方で、弊害も及ぼしていることが少なくない。ここでは、現代社会の多くの者が利用するパーソナルコンピューター(パソコン)を例にする。パソコンの機能を活用するためには、情報を得るためにディスプレイを見ることに加え、指令を出すためにキーボードやマウスなどを操る必要がある。前者は眼を中心とした視覚器によって、後者は筋肉や関節を中心とした運動器によって遂行される。そしてそれらの機器、すなわち道具の設計(デザイン)が適切でないと、見えにくい、押しにくいなどの問題から生産性が低下するだけでなく、上述した視覚器や運動器自体に、またそれらを介して様々な健康上の弊害が生じる。また、設計が悪くなくても、人間の機能の限界を超えた使用によっても弊害が起こる。例えば一時的な眼精疲労、ドライアイ、頭痛、筋疲労、手指のしびれ、肩こりから、長期的な視力低下、睡眠障害、自律神経障害、腱鞘炎、手根管症候群、姿勢のゆがみ(円背、ストレートネックなど)などの健康問題に発展する。

人間工学の定義は後述するが、その役割の一つは道具の望ましい設計(デザイン)や利用の仕方を科学的に提案するところにある。例えばキーボードの設計においては、キーの配列、大きさ、形状、ピッチ、ストローク、押下圧、タイピング音等を検討する必要がある。人間工学は利用する人間側の立場に立って、これらの設計要素に対して、作業効率(押しやすさ、間違いにくさなど)や快適操作感だけならず、予期される健康上の弊害を最小限にするための条件を追求・提案する。さらに利用者に対しては、健康上の弊害が生じないように、作業姿勢、作業時間の上限、休憩のタイミングや方法などの指針を発信する。これに類似する最近の指針として日本人間工学会(2020)がある。

さて、ここで人間工学の定義を紹介する。国際人間工学連合(IEA)は次のように定義している。「人間工学とは、システムにおける人間と他の要素とのインタラクションを理解するための科学的学問であり、人間の安寧とシステムの総合的性能との最適化を図るため、理論・原則・データ・設計方法を有効活用する独立した専門領域である」。対象は上述した道具(Product)、環境(Environment)だけではない。作業(Tasks)、仕事(Jobs)、組織(Organization)など人間に関わる活動全てが対象である。また定義では、人間工学は「科学」だと定義されている一方で、「最適化」、「有効活用」にも関係すると述べられており、科学から得られた知見を社会に役立てる「実践」面も強調されている。つまり、人間工学は「科学」と「実践」の両輪を扱うところに独自性がある。

人間工学の源流は二つあると言われている。一つはヨーロッパからで、19世紀中頃からの労働と健康との関連性の観点からである。ポーランドの科学者がErgonomics(エルゴノミクス)という造語(ギリシャ語のエルゴン(仕事)+ノモス(自然の法則))を用いたことに遡る。もう一つはアメリカで、第二次世界大戦以降のヒューマンエラーの観点からである。ここで人間工学に相当するものは、航空機の事故の原因は計器の読み間違えから起こるといった応用心理学を背景として、ヒューマンファクター(Human Factors)と呼ばれ発展してきた。しかし、源流は異なるもののそれぞれの対象範囲は広がりつつ重なりあい、今では両者は同義語とみなされ、「Human Factors and Ergonomics(HFE)」と呼ばれるようになっている。

人間工学が学問として認知された後、人間工学の考え方は随時アップデートされてきた。当初は前述したキーボードの例のように、人間の一部の機能、特に筋骨格系障害といった身体的側面を中心に研究することが多かった。しかし、道具を設計するときには、筋骨格系だけでなく、感覚・知覚系、認知・情報処理系などの諸機能に加え、全身の機能を包括的に捉えるアプローチが求められるようになった。さらに対象は個人だけでなく、個人が属する組織や集団、また社会も含めてマクロ的に考えるアプローチも求められている。

他方、これまで人間工学は社会に起きた様々な問題に対して解決策を提案してきた。そのほとんどが、問題が起きてから解決策を考えるというリアクティブ(事後対策)なアプローチであった。しかし、現代はテクノロジーの急速な発展によって、人工知能、仮想現実、自動運転といった次々と新しい技術が生み出されている。事後対策を講じるときにはその技術はすでに時代遅れになり、別の新しい技術に置換されていることが増えるであろう。将来起こりうる弊害を先見的に予測し、問題が最小限になるような働きかけを行うプロアクティブ(事前対策)も人間工学には求められている。またそれが理想の形でもある。

2021年、IEAは人間工学のコア・コンピテンシーを改訂した(参考文献2)。人間工学専門家が備えるべき基本的な能力を①基礎知識、②HFEに関する測定・分析スキル、③HFEに関する評価スキル、④HFEに関する提案スキル、⑤HFEに関する実践スキル、⑥科学的なスキル、⑦専門家としての行動に集約・整理している。人間工学を専門としようとする者はこれらを参考にして知識、技術や経験を深めることが課題となっている。

(村木里志)

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参考文献