脱創造
De-creation

創造性にまつわる構造を構想することをデザインとして捉える。このとき、藝術において、創造的営為はどのような構造を成しているだろうか。

かつてマルセル・デュシャンは「藝術係数(Art Coefficient)」を見出し、創造行為とは作家の意図するものと実現するものの差異=ギャップであると説いた(Duchamp, 1957)。従来、藝術係数は、その具体的事例としてデュシャンが作品と鑑賞者の出会いについて言及したことも相まって、作品と鑑賞者の偶然の出会いに求められるものと理解されてきた。作品が作家の意図とは独立に解釈されていく不可避性にのみ着目され、それが藝術係数の意義であると捉えられてきた。しかし藝術係数の真の様相は、作家の制作において自ら意図するものと自ずから実現するものの差異として表出するという点だ。創造はつまり、意図と実現のギャップにおいて潜在する外部──知覚世界の外側──から降りてくるのである。言い換えれば、創造とは外部である。藝術家の内部にあるものを実現するのでは、創造に通じる作品を成さない。そこで藝術家は、積極的に、しかし完全にコントロールできないかたちでギャップを構成する。その意味で作品とは、外部を降臨させるための罠であり、藝術家はその仕掛けを構成するだけで、あとは外部を、ただ、待つのである(中村&郡司, 2018)。このような徹底した受動的営為が、創造を実現する。したがって、作品を構想し、その構想をできる限り再現するような意図と実現の一致は、反創造的営為である。外部に能動的に参与すれば、その創造性を失ってしまうからだ。これはどういうことか。

ジョルジョ・アガンベンは創造的営為の様式に「潜勢力(Potentiality)」を捉え、潜勢力が創造的営為の鍵であると説いた(Agamben, 1993)。潜勢力とはアリストテレスから引いた概念である。アリストテレスによれば「黒板は、現勢力という状態にあっては何も書かれていないが、潜勢力という状態にあっては字が書かれている」と言える。つまり、黒板に文字を記した刹那、それはすでに現勢力となってしまうのだ。潜勢力とは、潜在的なものが持つ顕在化しようとする力であるとされる(郡司, 2019)。したがって、外部を表そうと外部に手をつければ、たちまち現勢力が発揮され、潜在する外部としての存在様式を失ってしまう。そのような反創造的な能動性に対して、潜勢力を発揮する真の創造を、アガンベンは脱創造(De-creation)と呼んだ。脱創造とは、すなわち「何も為さないことができる(Prefer not)」様態であるという。それはまさに、待つことのような受動的営為なのである。

脱創造の具体的な方法は、例えば、日本美術に見出すことができる。緑色の半円の図形のような山々が並ぶ風景表現が、とりわけ琳派などに多く見られるが、これはもはや写真のような現代の写実感覚(リアリティ)に親しんだ者ならば、一見すると拙い表現に見えるものだ。しかし中村は、これに「書き割り」という脱創造の構造を見出した(中村&郡司, 2018; 中村&郡司, 2020; 中村, 2020; Nakamura, 2021)。舞台背景装置などの書き割り平面は、裏側は描かれないため、一歩後ろに回れば、首尾良く構成されていた「世界」が現実では無いことを告発してしまう。とはいえ書き割りは、所詮、張りぼてであると世界を台無しにするものではない。山々を書き割りとして捉えることで、目前の現勢力としての写実性(リアリティ)に、全く異なる現実(リアリティ)を示す。郡司はこの構造にまつわる議論を、我々の認識における「前縁=フロンティア」と「境界=バウンダリー」のあり方によって示している(郡司, 2020)。前縁とは存在するかどうかすら確信できない向こう側を意味する。一方、認識不可能な向こう側と認識可能なこちら側の全体を俯瞰可能とし、両者を隔てるものが境界である。そこで「境界を通して理解される前縁の向こう側」であると同時に「境界を通して理解される前縁の向こう側の逸脱」という前縁・逸脱の間=ギャップを開く装置が、「知覚できないが存在する外部」を召喚可能とすると説く。日本美術に見出した書き割りの山は、まさに前縁・逸脱のギャップを開く装置であると言える。抽象的な書き割り平面でありながら現実の風景を成す山々の連なりは、境界として能動的にアクセス可能な素朴な向こう側を有限に隔てて前縁を示しながら、同時に、むしろ裏が無いことで、「前縁の向こう側としてさえ概念化できない」とされる徹底した向こう側としての外部をもたらすことができる。その意味で書き割りの山は、その背後に、全くの外部を控えていると言えるのである。だからこそ、古来より繰り返し描かれてきた画題「山越しに阿弥陀が立つ」といったことも現実に可能となるのだ。

藝術としてできることは、書き割りという空虚な張りぼてを仕掛けることにのみ注力し、それを前にして、ただ、外部が立つのを待つことだけだ。裏の無い書き割りを前には、待つことしかできない。言い換えれば、何も為さないことができる様態をさせてくれるのが書き割りである。書き割りが可能にする非常に受動的な営為が脱創造の持つ構造なのである。そのような現実(リアリティ)がある。

あらかじめ意図された実現であるいわゆる「創造」は、過去に立脚するものだ。一方で脱創造は、未来を構想することと言える。未来は想定するものではなく、ただの外部である。未来という外部をいかに召喚するかの仕掛けをデザインすることが、未来に向かうことであり、未来を構想することである。脱創造の感性を鍛えていくことの中に、創造的な未来を描くデザインが現実となるだろう。

(中村恭子)

関連する授業科目

未来構想デザインコース 視覚芸術基礎、芸術表現論ほか

参考文献

  • Duchamp, Marcel. (1957) Creative Act. The New Art, Gregory Battock ed. E. P. Dutton & Co. Inc. pp. 23-26.
  • Nakamura, K. (2021) De-Creation in Japanese Painting: Materialization of Thoroughly Passive Attitude, Philosophies 6(2) 35, DOI: https://doi.org/10.3390/philosophies6020035
  • ジョルジョ・アガンベン (2005)『バートルビー 偶然性について』高桑和巳訳、月曜社
  • 郡司ペギオ幸夫 (2019)『天然知能』講談社メチエ
  • 郡司ペギオ幸夫 (2020)『やってくる』医学書院
  • 中村恭子(2020)「書き割りの身をうぐいす、無限小の幸福」、『アフェクトゥス(情動):生の外側に触れる』西井凉子・箭内匡(編)、京都大学学術出版会、pp.8-40.
  • 中村恭子・郡司ペギオ幸夫(2018)『TANKURI―創造性を撃つ』水声社
  • 中村恭子・郡司ペギオ幸夫(2020)「書き割り少女―脱創造への装置―」『共創学』2(1) 1-12(リンク