バイオアート/デザイン
Bioart/design

「デザイナー・ベビー」という言葉がある。これは遺伝子操作などの技術によって出生前の受精卵に処置を加えることで、生まれてくる赤ん坊に特定の能力や外見の特長を授けようとする試みを指す。もちろん、この世に生を授かる以前の生命に人為的な手を施すことは多大な倫理的問題を呼ぶものであり、それを実施することには不可避に批判がつきまとうことだろう。だが、実際には特定の遺伝的疾患を予防するための出生前診断が進められていることや、冷凍保存をした精子と卵子を試験管で受精卵として育てることも実現している。こうした動向を踏まえるなら、出生前の子どもを「デザイン」するという発想が登場するのも決して不思議ではない。

では、そもそもこの場合の「デザイン」とは何を指しているのだろうか。それはもっぱら人工物を対象としてきたはずのデザインという言葉が、生命や生物といった領域にも進出しつつあることを示している。実際に出生前のヒトでなくとも、生命をデザインするという営為は現在、期待と批判(または恐怖)が多分に入り混じるかたちで急速に注目を集めている。そのことを象徴的に示すのが、バイオアートやバイオデザインと呼ばれる分野の登場である。バイオアートとは、前世紀以来の生命科学の加速度的な進展について意識的な態度をとりつつ、そうした科学技術と生命現象との関係を主題とする、もしくは、実際に生物学の技法を表現手段として取り込んだ表現や作品のことを指す。その歴史としては、1980年代から自身の身体をみずから改造するパフォーマンスやプロセスを提出したステラークやオルランといったアーティストたちによる作品を嚆矢とみなすこともあるが、より最近ではエドワルド・カッツの発表した《GFP Bunny》(2000-)が、この動向にある種の転換点を印付ける作品となった。これはオワンクラゲから採取される緑色蛍光タンパク質を取り込むことで特定の条件下で緑色に光るウサギそのものを批判的な観点から提示しようとする試みであった。ただし同時期から他にも、現在進行形の生命科学とより緊密な関係をもつ作品が数多く登場している。また制度的な観点からも、西オーストラリア大学のSymbioticAや早稲田大学のmetaPhorestなど、バイオアートの拠点となるような場所が世界中に数多く登場することにもなる(2019年には、九州大学芸術工学研究院にもバイオ・フードラボが設置された)。

こうした表現手段としてのみならず、しばしば問題解決や社会実装を目指すデザインの分野では、そもそも生命や自然といった対象が模倣すべきモデルとして採り入れられてきた歴史的な蓄積がある。生命のリズムや調和を対象としてきた古代以来の自然学との連動を含めるならば、自然の形態に関して考察を展開したアリストテレスの哲学を皮切りに、ウィトルウィウスの建築論、ルネサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチの実践を経て、近代初期のゲーテへと連なる思想的伝統をその源流とみなすこともできよう。近代以降には自然の原理を説明するための教義が宗教から科学へと移行することにより機械論的な態度が優勢になるものの、とりわけ生命をめぐるアートやデザインの実践では、生気論や有機論と呼ばれる伝統が潜在的な仕方ではあれ、一定の隆盛を繰り返してきたと言える。

『バイオデザイン』(MOMA, 2012)および『バイオアート』(Thames & Hudson 2015; 翻訳2016)を発表したウィリアム・マイヤーズは、前者の著作において近現代以降のデザインと自然の関係を「物理学から生命科学へ」といった流れにまとめている。アールヌーボーにおける装飾模様からバウハウスやモダニズム建築、戦後日本のメタボリズム運動、フランク・ゲーリーやグレッグ・リンらによるコンピューテショナル・デザインまで、20世紀のバイオ・デザインが主として建築の分野で展開したとすれば、1970年代から現在までには、環境についての意識が高まりをみせることとなった。具体的には、デザインの対象である産業製品が自然環境に多大な影響を及ぼすことへの危機意識を共有するものとして、リチャード・バックミンスター・フラーやヴィクター・パパネックらの仕事が挙げられる。それとともにデザイナーの役割は、単に製品を作り出すことだけに収まらず、資源の収集から労働の形態、市場での分配や消費のシステムを作り出すこと、つまりは環境そのものを対象とするものへと展開したのである。

その先にあってデザインの領域は、生命を分析対象とする生物学との急速な接近をみせ、デザイナーたちはおのずと、エネルギーと素材とを独自に調和可能にする生態系へと(再)注目することになる。このことは自然界の生物の仕組みを採用する「バイオミミクリ(生物模倣)」、現状に対して批判的な姿勢を打ち出すクリティカル・スペキュラティヴ・デザイン、より最近では3Dプリンタなどのデジタル・ファブリケーション技術との結びつきにも顕在化している。より象徴的な事例としては、ヒビに侵入した水と酸素によって活性化するバクテリアを用いて自己修復を進めるコンクリート素材の実用化を試みるデルフト工科大学のヘンドリック・ヨンカースらの取り組みもある。これらの試みもまた、単に表面上の意匠設計におさまらず、細胞や分子単位での生命レベルに着目しつつ、それを資源循環という生態系にまで展開するバイオ・デザインの実践を形成している。

さらに、こうした動向と並行しつつもバイオアートの動向が、生命科学の過度な進展と倫理的な側面を問題化する傾向にあったことは先に述べたとおりである。それでも上述のmetaPhorestを主催する生物学者兼アーティストの岩崎秀雄は、人間が何をもって生命とみなすのか、その感得や体感のプロセスを考察する人文・社会科学的な手法を同等に重視するような活動を展開している。その背景に控えるのは、合成生物学と呼ばれる生命科学の新たな動向である。前世紀後半からDNAという生命情報のリソースの解明を進めた分子生物学の進展は、生命現象に対して理学的な観点からトップダウン式の解析を進めるシステム生物学と、工学的な観点からボトムアップ式の構築を進める合成生物学へと展開をみせることになった。こうして生命科学もまた、「作りながら解明する」というデザインのプロセスへと舵を切っているのであり、そのなかで何をもって生命とするのかという原理的な問題をあらためて検討する必要性が生じているのである。

こうしてみると、バイオアートやデザインの可能性は、生命をめぐる科学の実践と、デザインやアートの歴史的蓄積とが交錯するところに求められる。それはまた、「アート」という言葉を元来の意味で、つまりは狭義の芸術のみならず、自然と対峙した人間の技術全般(アルス)として捉え直すことにもつながるだろう。あらためて考えてみれば、なにも最新の科学的知見や冒頭に見た生殖活動に限らずとも、農耕や園芸のために土を掘り起こしては植物や天候と対峙したり、微生物による発酵の産物である酒やチーズ、醤油、納豆、漬け物などを共に作り上げ、頻繁に口にしたりする私たちも、これまでに培ってきた文化のうちでバイオ・デザインを実践してきたはずである──「カルチャー」とはそもそも、耕作や培養といった意味を持つことも想起されたい。実際にこうしたバイオアート/デザインの実践への注目は、人間と人間以外の生命活動の絡み合いに着目し、人間中心主義を克服しようとする最近の人類学の展開(特にマルチスピーシーズ人類学など)とも接近しつつある。つまりは生命(自然)と技術(人工)を人間/非人間による利害や営為へと限定することなく、その両者をいかに媒介することができるのか、それこそがバイオアート/デザインが提示する問題なのである。

(増田展大)

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参考文献

  • 岩崎秀雄(2013)『〈生命〉とは何だろうか 表現する生物学、思考する芸術』講談社現代新書
  • ウィリアム・マイヤーズ(2016)『バイオアート バイオテクノロジーは未来を救うのか』BNN新社
  • 奥野克巳、近藤祉秋、ナターシャ・ファイン編(2021)『モア・ザン・ヒューマン マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』以文社
  • Sandor Ellix Katz著、ドミニク・チェン監修(2021)『メタファーとしての発酵 』オライリージャパン