(ポスト)人間中心主義のデザイン
(Post) Human-centered Design

人間が全体としてよく生きるために技術を用いることをデザインの人間中心主義と呼ぶとすれば、その起源は古代ギリシャの哲学にまで遡る。『ニコマコス倫理学』のアリストテレスによれば、職人たちはたんに物を作る能力を持つにすぎず、そうした個別の技術を組み合わせ、人間のよいよいあり方を最終的に生みだすより高次の技術があるとされる。アリストテレスはその技術の目的を「棟梁的な仕事の諸目的」と呼び、それに従事する技術者を「大工たちの大工」と呼んでいる( 『ニコマコス倫理学』、1094a19、高田三郎訳、岩波文庫、1971年)。なお、棟梁の比喩は『形而上学』の冒頭(981a30)においても展開される。職人たちに代表される専門知は奴隷の学であり、棟梁に代表される全体知は「王者の学」だとアリストテレスは主張する。ちなみにここにおける棟梁は哲学者の比喩であり、その知は哲学知(ソフィア)を意味する。

ソクラテス、プラトン、アリストテレスというアテナイ学派の伝統によれば、人間にとってもっともよきものとは金銭や健康や評判といったものではない。それらはより悪い目的にも奉仕するたんなる手段である以上、その手段が実現する究極目的こそが真の意味でのよきものということになる。たんなる技術が手段を提供するのだとすれば、高次の技術は人間の生きる究極目的を探求し、それを実現する目的それ自体にかかわる技術である。アリストテレスによれば人間の究極目的とは、人間が持つ潜在的な能力が最高度に発揮されている状態、つまり人間が最高度に「エルゴン=機能」していることであり、それが幸福と呼ばれる。

こうした古代ギリシャの伝統は、動物や自然、異文化から「人間」を特権化する西洋中心主義の起源となった。というのも、アリストテレスにおいて人間の身体の生存や安全を図る技術は、動物が自己保存を図るあり方と何ら変わるものではなく、人間をその技術に従属させることは、自然必然性の領域のうちに人間を閉じ込め、人間を動物化し、人間性を破壊することを意味したからである。西洋中心主義において人間は、技術を用いて自然必然性から離脱し、その意味での人間的自由=自由な人格を形成しなければならず、そのための技術こそが真の意味での人間の技術=西洋の技術であるということになる。

こうした西洋的技術観は、19世紀の工業化以降の時代において、人間性の条件を作り出す技術の進展が、その目的であるべき自由な人間性をむしろ破壊するのではないか、という危機意識を生みだした。近代デザインは、大量生産しうる製品のプロトタイプを考案するものとして誕生したが、しかしそうしたデザインの美的効果(装飾)が資本主義や帝国主義と結びつき、かえって人間性を脅かしていると批判したのは19世紀後半のラスキンやモリスであった。20世紀になると、機能主義、すなわち、虚飾としての美的効果を排除し、人間や素材の潜在能力=機能を発現させる造形原理こそがデザインだとする考え方が主流になっていく。この点で、ラスキンやモリス以降、デザインの人間中心主義は、自動的に進展する技術と社会に対する自己批判能力によって定義される。

20世紀以降、デザインが科学化され、学知との結びつきを深めるにつれて、デザインの人間中心主義は、技術を支える学知の人間科学化というかたちをとって進展する。生理学・生物学が動物としての人間の生存を、経済学や社会科学が動物の延長としての社会的自己保存の様態を研究するとすれば、それらにのみ立脚した科学技術は人間を動物化するであろう。そこで動物とは異なるその主体性の観点から人間を取り扱う人文諸科学、とりわけその心理の法則性に焦点を合わせる心理学・経営学・教育学・社会学といった人間科学が、人間中心主義を支える学知としてデザインにおける中心的な役割を果たすことになる(人間工学、主観評価法、統計学)。

これに対して20世紀の後半以降には、環境問題の顕在化や脱植民地主義の台頭とともに、人間をその固有性においてではなく、自然や動植物との連続性のうちに捉えようとする脱人間中心主義的な思想が台頭し、それがデザインにも深い影響を与えることになった。それらの思想によれば、人間科学に基づくデザインは、動植物と区別される特権的な存在として人間を捉え、その固有性に基づくデザインを意図するとしても、結局は人間の主体性をも一つの法則的・統計学的必然性のうちに固定化し、それを客体化し、操作しようとしているのではないか、同時にそのデザインは、動植物や自然(もしくは異文化)を(西洋の)人間性を実現する手段=素材としてのみ利用することを正当化するのではないか、と問うのである(ポストコロニアリズム)。

デザインを人間の自由な意志の発露ではなく、環境と生体との偶然を含む相互作用によって自律的に生成するものと見なしたり(アフォーダンス、オートポイエーシス)、デザインを事前の合理的設計ではなくその場その場の工夫の連続と考えたり(ブリコラージュ)、合理的に思考する理性的な存在ではなく、人間やその文化を生物の反復的リズムの観点から捉えたり(バイオデザイン、環世界論)、人間どうしの規範を問題とする伝統的倫理学を批判する環境倫理学と協働したり(環境デザイン)といったさまざまなかたちをとりながら、人間性の理念をあらたなかたちで探求するデザインが生じつつある。

(古賀徹)