建築様式
Architectural Style

「アーキテクチャー」とは、コンピューターや社会構造など様々な分野において用いられる言葉であり、設計思想や仕組みといった意味を持つ。これと同様に「建築」という言葉も、実体物でもあり思想でもあるという二義性を持っている。

西洋における建築の歴史は、一方で、モノとしての進化、技術としての発展の歴史でもあるが、他方で、各時代の思想表現が変遷しゆく歴史でもある。後者の時代的表現を様式という。ギリシャ、ローマ、ビザンチン、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック、ロココ、新古典主義、近代主義といった様式は、先の時代の思想を継承しつつ、それを超えようとする運動であった。

たとえば、ローマ様式は、柱梁からなるオーダーというギリシャ様式の美の理念を構造的なアーチの発明によって上書きするものであり、その結果、ギリシャ様式の美意識を引きずりながらも、なお空間表現を飛躍させることに成功している。一方でゴシックは、ローマ様式やロマネスク様式とは異なる垂直的で明るい空間を求めて、空間表現を質的に大きく変化させた。ゴシックの始まりは光を取り入れるための発明にあり、これはサン=ドニ大聖堂を建設した修道院の院長シュジェール(1081-1151)の宗教的思想に由来する。

西洋の教会にみられる巨大な石造建築には百年単位の長い年月がかかるため、時にはそこに別の様式が混在することもある。キリスト教建築を代表するサン・ピエトロ大聖堂は、ルネサンス期のブラマンテ(1444-1514)から始まり、マニエリスム様式のミケランジェロ(1475-1564)などを経て、バロック期のベルニーニ(1598-1680)に至るまで、数多の建築家たちによって構想され建築されてきたものであり、各時代の様式の接ぎ木となっている。

また、近世になって、ローマ時代の古典主義へのリバイバルを目指す思想運動も起こり、19世紀には新古典主義の建築が都市を彩ることになる。現在、パリの象徴にもなっているエトワール凱旋門は、1836年に完成した「新しい」建物である。

19世紀に入るとこれら様式の概念は「装飾は罪悪である」と宣言したアドルフ・ロース(1870-1933)らによって否定され、20世紀になると、近代建築の先駆者ル・コルビュジエ(1887-1965)が「現代はギリシャのパンテオンが機械によって実現される」と言い切り、ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)もまた、「less is more」という言葉でミニマルさを提唱し、伝統的様式からの建築の離脱を主張した。彼らは、時代の思想を内包した様式のうちに美を見るのではなく、機能そのものや新しい合理性の中に美を追求した。それが、国際様式とも言われる近代の建築概念の起源となる。

しかし、20世紀半ば過ぎには、ロバート・ヴェンチューリ(1925-2018)が「less is bore」と近代主義を批判し、チャールズ・ジェンクス(1939-2019)が名付け親となって「ポストモダン」の時代を迎えるに至る。彼らにとっては、様式を否定し超克したはずの近代主義もまた、一つの乗り超えられるべき様式の一部と化したのであった。建築様式をめぐるこうした西洋の経緯は、前の時代を批判しながら弁証法的に上昇を続ける一種の永久運動を示すものといえる。

これに対して日本の建築様式の歴史は少々異なる様相を示している。寺社の建築と世俗建築では事情が異なる。寺社建築では、中国文化の残滓が濃い飛鳥様式の建築を出発点として、軒を深くすることや屋根の勾配を緩くすることが追求され、技術的な様式が発展した。柱を細くする平安時代の和様がそれであり、中国の様式を再輸入して形成された鎌倉時代の大仏様、禅宗様がそうである。これらの様式は、時代思想の表現ではなく、技術的要請や即物的選択、あるいは趣向によって形成された側面が強い。ここで様式は乗り越えるべきものというよりも、選択され、改良されるものであった。近世に至ると、住居などの世俗建築においては、書院造、数寄屋造などが成立するが、それらは、類型化された部屋の形式が発展していくことによって成立する日本独自の様式で、西洋とは全く違う歩み方をする。また、西洋建築が、個人の創作を発端とし、全体概念を示した設計図によって創造される傾向を持つのに対し、日本建築は、たとえば江戸時代初期の「匠明」において部材寸法の関係を示す「木割」が大工の棟梁に代々秘伝として伝承されたように、アノニマスな部分概念の集積という特徴を持つところが興味深い。

そもそも日本には、建築という言葉は明治中期まで存在しなかった。「Architecture」という概念に含意される抽象的な思考方法、芸術的な視点を受け入れる土壌を欠いていたせいである。「造家」という当初の不慣れな訳語が、物にのみ目を向ける当時の思想状況を示唆している。1897年(明治30年)、伊東忠太(1867-1954)によって、「建築」という言葉が正式訳語として学会に採用されることになった。そこでようやく、「建てる」、「築く」という同義反復語によって、デザインとしての概念、抽象としての側面が輸入されたのだった。ちなみに、現在もなお国土交通省には「建築局」はなく、「住宅局」が建築行政の主管であるのは興味深い。

とはいえ、日本の建築の歴史に思想的考察が全くなかったとは言えない。丹下健三(1913-2005)は、1960年の著書『桂 日本の建築における伝統と創造』において、日本の建築の典型を「伊勢」と「桂」に二分し、それぞれを「縄文的」、「弥生的」と特徴づけることで日本の建築を解釈している。生命を謳歌する躍動的・情熱的なもの、ディオニュソス的なものが縄文であり、理性を司り、繊細で静的でアポロン的なものを弥生であるとして、それぞれ対極の代表例を伊勢神宮と桂離宮にしている。丹下によれば、二つの系譜の間で建築は日本独自の発展を遂げてきたとされる。ただ、その認識が同時代の日本人に存在していたかどうかは不明である。桂離宮もそれまで無名だったものが、外国人の近代主義者、ブルーノ・タウト(1880-1938)によって「発見」されたのだった。それは突如として日本の伝統建築が近代建築の文脈に取り込まれたということでもあった。

日本の建築は近代建築の文脈にすぐに順応した。なぜなら、木造の柱梁架構のため、自由な平面、自由な立面、ピロティ、連続水平窓、屋上庭園というル・コルビュジエの近代建築の5つの要素のうち、屋上庭園を除いた4つをすでに遺伝子として兼ね備えていたのだったからだ。日本の伝統建築にとって、近代建築への移行は、思想的に乗り超えるべきものというよりは、たんに技術の問題であった。その親和性こそが日本の近現代建築家たちが世界での活躍に繋がっている一つの理由であろう。

建築は、一方で思想や美学でありながら、他方で技術でもある。様式とはその両者を含むものであるが、西洋に見られる個人(建築家)の発案が起点となった様式と、日本のように匿名的で集合知的な様式の違いこそあれ、その時代に広く普遍的に浸透し、受け入れられた美の形式として定型化してゆく点では同じく時代精神の反映ともいえる。

(鵜飼哲矢)

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環境デザインコース 建築空間設計論

参考文献

  • ワルター・グロピウス、丹下健三(1960)『桂 日本の建築における伝統と創造』造形社