サウンド・アート
Sound Art

サウンド・アートの領域は、音楽と芸術のあいだの曖昧な場所に位置付けられる。音のデザインに対して着想源となるサウンド・アートの役割は、グラフィック・デザインに対するヴィジュアル・アートの役割と似ている。

サウンド・アートの定義にかんする問題は、音楽家であり著述家でもあるアラン・リクトによる先駆的なテキストSound Art: Beyond Music, Between Categories (2007; Sound Art Revisited として2019年再刊)で論じられている。リクトは、美術と音楽の双方の背景を持つクリエイターたちによる驚くほど多様な幅をもつ実践を、単一の定義に収めてはいない(そうすることはできない)。しかしながら、彼はサウンド・アートを構成するものに以下、4つの原則的な基準を与えている。すなわち、芸術的な表現のメディウムとして音を利用すること、芸術の展示空間(音楽用の空間ではない)で展示されること、線形的な時間構造(音楽の構造)を持たないこと、そして、その全体像を開始から最後まで聞くことが意図されていないこと、である。

リクトも認めるように、これらの基準すべてに当てはまらないサウンド・アート作品も存在しているし、すべてに当てはまる音楽の楽曲──特に実験音楽など──もある。屋外で展示されるサウンド・アート作品(サウンド・ウォークやサウンド・スカルプチャーなど)や、線形的な物語構造を持つもの(聴衆が物語構造を最初から最後まで追いかけることをアーティストが重要だとは考えていないかもしれないが)、または、作曲家が聴衆に対してパフォーマンス空間を自由に出入りすることを促すような音楽作品を思い浮かべることも難しくはない。実質的には音をまったく伴わないサウンド・アートでさえ可能である。例えば、角田俊也による2005年のインスタレーション作品である《間口港の低周波(Low Frequencies Observed at Maguchi Bay)》からは、20ヘルツ(人間に聞こえる最低限)を超える音が除外されている。それゆえ、展示されるのは人間には聴取不可能な音を再生しているスピーカーであり、私たちに観察できるのはそのスピーカーの機械的な運動でしかない。2007年にCDとして発売されたこの作品は、通例となったジャンルの境界線に断固として異議を申し立てる。それはサウンド・アートなのか、音楽なのか、そのいずれでもないのだろうか。

サウンド・アートは当初、1970年代後半のニューヨークで提起された用語であったが、空間内で音を探求する芸術的な実践は、実験芸術や実験映画においてそれ以上に長い歴史がある。音を発生源から視覚的に切り離すことは、音を独立した芸術的なメディウムとして考えるうえで不可欠な条件であるが、これは19世紀後半に電話や蓄音機が発明され、その後にラジオが発明されたときに完全に実現されていた。しかしながら、すでに16世紀においてさえ、教会やオペラ、コンサートホールなどの場所で演奏家たちを聴衆から見えないところに置く作曲家たちがいたし、それゆえ彼らの音楽的な思考のうちでは、空間がひとつの変数として取り扱われていたのである。

伝統的な音楽の調性から除外される音を利用した音響芸術(sonic art)という概念は、まず未来派の芸術家であるルイージ・ルッソロによる1913年のマニフェスト「騒音芸術」のうちで提示された。このテクストで彼は、モーターや電気の速度とエネルギーに溢れかえる近代産業の時代にふさわしい音楽を訴えたのである。ルッソロはみずから、彼がイントナルモリと呼ぶ、騒音を作り出す27の装置を作り、第二次世界大戦前後にこれらの楽器で何度もコンサートを開いた。

サウンド・アートに最大の影響を与えた作曲家がジョン・ケージであることは間違いない。彼が音楽の慣習的な作曲から距離を置くようになったのは、1930年代から40年代にかけて音程のない打楽器とプリペアド・ピアノのために制作された作品に始まり、1937年の論文「音楽の未来:クレド」では、電子楽器と「ノイズ」の使用によって可能となる無限の可能性をもつ音楽が予見されていた。極めて著名な彼の作品である1952年発表の《4分33秒》は、演奏家たちに4分33秒の間、何の音も出すことがないように指示するものであり、その時間にパフォーマンス空間に生じる他のすべての音がこの音楽の内容となる。音の由来を問わず、そのすべてを音楽として受け入れるというこのラディカルな行為は、1960年代の運動であるフルクサスでのハプニングやパフォーマンス・アートを切り開くことになり、それらは潜在的に考えうるアクションのすべてを芸術的なものとして含みこむことになった。このラディカルな包括性の時期から、アーティストと音楽家たちの双方は互いの領域をますます頻繁に横断するようになり、その結果として、ウィリアム・ヘラーマンが1983年にニューヨークでサウンド・アートの初めての展覧会を企画したときには、音で制作する芸術家と芸術で創作する音楽家たちの豊かな伝統が依拠すべきものとして存在していたのである。

サウンド・アートが最終的に定義不可能であることは、おそらくこのジャンルの強みでもあるのだろう。独立した領域としてはかくも短い歴史でありながら、そこには膨大な可能性と探求とが存在している。そして、サウンド・アートの非線形性は、実験音楽とのあいだに否定しようのない重なりがあるにせよ、それを古典音楽やポピュラーミュージックの伝統とは根本的に異なるものにしている。同様に視覚芸術との比較で言えば、音の直接性と親密性は──音波は物理的に聴取者の身体を貫くものであるし、私たちヒトは眼とは異なり、自分たちの耳を閉じることができず、それをずっと開いたまま音に晒さなくてはならない──、距離をもって眺められる造形芸術のオブジェクト以上に、直接的に聴取者の情動へと作用する。音楽と芸術の双方にとって、サウンド・アートは表現のための新たな領域を切り開くのである。

サウンド・デザインもまた、音響学を超えた領域としてサウンド・アートとならんで発展してきた。リクトはサウンド・デザインの起源を、初期のラジオの再生やサウンド映画、とりわけオーソン・ウェルズの作品(例えば、『市民ケーン』)に認めており、これはヴィジュアル・デザインとサウンド・デザインの双方における前衛的な芸術の理念に依拠したものである。特に1970年代以降には、映画がサウンド・デザインにとって実験や開発のための場になっていたのであり、そこでサウンド・デザイナーたちは、映画的なサウンドスケープを創り出すのにサウンド・アートにおける革新に依拠することが少なくなかった。くわえて、自然な環境と構築された環境の双方に関連するサウンド・デザイナーたちは、サウンド・アートにおいてますます重要性を帯びるようになった音の親密性に影響を受けている。サウンド・アートは、室内での音響学を探求するもの(アルヴィン・ルシエによる《I am sitting in a room》など)や、サウンドスケープを探求するもの(上述した角田俊也のインスタレーションなど)、または都市での日常生活の音を探求するもの(マーティン・クリードによる作品《No.409》は、エレベーターに合唱の録音が設置され、その録音が昇降の向きを知らせる)など、サウンド・デザイン内部の多様な領域と対話を重ね、そこで実現されうる諸々の可能性を切り開いている。

サウンド・アートは、若く、活性化した創造領域として、音楽と芸術のあいだをあてどなく漂いつつ、その親となる両方の領域から得たアイデアを展開し、拡張している。これまで以上に騒がしくなる世界では、音に対して多様な視座からの感受的かつ創造的な注意力が必要となる。現在、サウンド・デザインの未来が、サウンド・アートによって開かれた広大な広がりのうちで探求されつつあることは疑いようもない。

(ゼミソン、ダリル)

参考文献

  • Kelly, Caleb ed. (2011) Sound. London: Whitechapel Gallery.
  • Licht, Alan (2019) Sound Art Revisited. London: Bloomsbury.