メディア論
Media Theory

メディアという言葉を新聞やテレビ、インターネットなど、いわゆる情報伝達のための手段として捉える限りでは、それとデザインとの関係は部分的なものでしかないように思われるかもしれない。しかしながら、この言葉を旧来の情報媒体としてだけでなく、建築や住宅、衣服や乗り物、さらには情報デバイスなど、私たちを取り囲む人工物一般として捉えるならば、それらはデザインの領域と大きく重なり合うものとなる。このような観点から実際にメディア論の古典ともいえる議論を展開していたのが、マーシャル・マクルーハンによる1964年の著書『メディア論』(原題:Understanding Media)である。

この著作のうちでもよく知られた主張のひとつが、「メディアはメッセージである」というテーゼである。メディアそのものがメッセージであるという指摘は何を意味しているのだろうか。

新聞やテレビといった具体例を念頭におくと、一般にメディアは情報やコンテンツを伝えるためのものであり、メッセージを収容するための容器だとみなされている。こうした理解の源流には、現在の情報技術の起点となったサイバネティクス、そのうちでもシャノン゠ウィーバーが提出した送信者と受信者によるメッセージの伝送モデル(または、それを言語学的に展開したR・ヤコブソンの議論)が控えている。これこそ、マクルーハンによる先の指摘が批判しようとしていた理解にほかならない。送信者の意図した通りのメッセージが受信者に伝わるという、透明かつ理想的なモデルは、果たして妥当なものであるのだろうか。実際のところ、メッセージの伝達が意図せぬ結果を生むことも少なくなければ、手紙や電話やメールなどの形式によって、冒頭の書き出しから内容、伝わり方にいたるまで、メッセージは多大な変容を被ることにもなるだろう。さらに歴史的な観点からすれば、活版印刷から書籍や新聞、電信やラジオからテレビ(そして、マクルーハンの時代には実現していなかったインターネット)など、情報を伝達するためのメディアは歴史上、私たちを取り囲む技術的な環境を構成し、それぞれの方法でメッセージの内容そのものを規定してきたはずである。かくして「メディアはメッセージである」とのテーゼには、文明史にも及ぶ大局的な観点からメディアのことを個別の意味や内容ではなく、それが人間の身体器官や感覚知覚に及ぼしてきた「影響」から捉え直すべきであるとの主張が含意されている。

その具体例として、『メディア論』の第二部では各章ごとにさまざまな人工物が検証されている。ここには「新聞」「広告」「ラジオ」「テレビ」など、メディアの通念的な理解に当てはまるものだけでなく、「衣服」「住宅」「車輪、自転車、飛行機」、「自動車」、さらには「貨幣」「兵器」「オートメーション」など、一見してメディアと呼ぶことが難しい事例も少なくない。ただし、それぞれを単に意味を伝えるものとしてではなく、人間に多大な影響を及ぼした技術的環境=メディアとして考えてみよう。たとえば車輪から自転車、自動車へと進展した移動の技術は、内容にあたる乗客が誰であるかにかかわらず、それらの人間の行動様式や感覚器官にとって、到着するまでの時間や空間の共有の仕方を大きく変えるものであった──実際に19世紀の鉄道は、見たこともない風景を人々の感覚器官に与え、視線や言葉を交わすことなく見ず知らずの人間と一緒に過ごす時間を強いることにもなったのである。さらに付け加えると、現在のインターネットの技術も、そこで行き交う情報の内容が何であれ、世界中の人々を同時的に接続し、その行動にまで作用するネットワーク環境を実現している(マクルーハンはこの点について「グローバルヴィレッジ」という言葉で予見的な議論を展開していた)。ラジオやテレビ、インターネットといった形式にあわせて、その内容である番組(プログラム)を受け取る感覚が異なるとすれば、まさしくメッセージとしてのメディアこそが私たちの身体や感覚を規定しているのである。

そして興味深いのは、こうしたメディアの効果を説明するために選ばれた事例の多くが、これまでにデザインが対象としてきた事象とも大きく重なりあうという事実である。たとえば、日本でデザイン論を展開した批評家の多木浩二が、メディアの機能を単に情報を媒介する担い手ではなく、それ自体の形式によって世界を変えていくものだと指摘するとき、こうした理解に上述のマクルーハンのメディア論が変奏されているのを見ることは難しくない。実際に多木が著した数々の論考では、このアイデアが建築から写真、家具や装飾といった個別かつ広範な領域へと応用されている。こうしてデザイン論とメディア論とが重なり合うところでは、その造形や意匠がどういった意味やメッセージを内包しているのかではなく、その形式こそが人間の感覚や認識にどういった影響を及ぼしているのかを検討する必要が生じる。それは言い換えるならば、デザインが目の前の製品や事物を対象とするばかりか、人間の感覚や知覚、さらにはコミュニケーションのあり方そのものに関わる問題であるということでもある。

こうしたメディア論的なデザイン理解は、最近のデジタル技術にも強い影響を及ぼしている。それはたとえば、ジェイ・D・ボルターとリチャード・グルシンが提出した「リメディエーション(再メディア化)」という概念に認めることができるだろう。この概念もまた、「メディアの内容とは過去のメディアである」と主張したマクルーハンの議論を展開したものであり、ボルターらはデジタル技術以降のニュー・メディアの本質的な特性が、それ以前の過去のメディアを内容として取り込むことにあると指摘していた。確かにパーソナル・コンピュータの内容となるのは、文書や写真や音楽、映画、手紙や電信といった以前のメディアであり、タブレット型端末と電子書籍との関係は、いまだ紙を支持体としていた読書の体験を私たちの身体や感覚レベルで再演させている。そのうえでボルターらが実際に議論の対象としているユーザー・インターフェイスやメディアアートなど、デザインは今後もますますメディア(論)の領域と大きく重なり合うことになるはずである。

(増田展大)

参考文献

  • ジェイ・デイヴィッド・ボルター、ダイアン・グロマラ(2007)『メディアは透明になるべきか』田畑暁生訳、NTT出版
  • 多木浩二(2008)『眼の隠喩 視線の現象学』ちくま学芸文庫
  • マーシャル・マクルーハン(1987=1964)『メディア論 人間の拡張の諸相』栗原裕・河本仲聖訳、みすず書房
  • Jay David Bolter and Richard Grusin (1999) Remediation: Understanding New Media, MIT Press.